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謎の伊佐々王伝説
姫路市安富町の奥地・関集落の「鹿ヶ壷」
兵庫県西播磨、雪彦山の西山麓に、流紋岩の山膚を流れる急勾配の渓流の谷底に水の侵食作用によって大小十ヵ所余りの甌穴(おうけつ)が連らなり、県の指定名勝になっている。

大きな甌穴
(おうけつ)は、鳥ノシコミ・五郎在壷・尻無などの名前で呼ばれるが、最上流の鹿ヶ壷の形が「鹿の寝ている姿」に似ていることから、「鹿ヶ壷」と名付けられたという。

この「鹿ヶ壷」に伝わった伝説が「伊佐々王(イザサ)王の伝説」だ。






今から一二〇〇年以上の昔、光仁天皇の宝亀四年(七七三年)のころー、安志の里(現在の姫路市安富町)の険しい山奥に巨大な一頭の鹿(しか)が棲んでいた。
人々は、この大鹿を「伊佐々王
(いざさおう)」と呼び恐れていた。
体長はおよそ六メートル、大きな角は七つに枝分かれし、背中にはササが生えて、足には水かきがあるという怪物で、もう何百年も生きているらしく、数千頭の鹿を従えて山を荒らして獣を殺し、里人まで襲った。
伊佐々王の乱暴は年を経るにつれて酷くなり、とうとう村の中でも大暴れするようになったので、里人たちは散り散りに逃げるといった有様だった。

この事が天皇に聴こえ、勅命によって播磨の兵士たちが集められ、大がかりな「伊佐々王」退治が始まった。
兵士たちは勇敢に戦ったが、伊佐々王はこれま迄にも増して暴れまわり、中々、倒すことが出来なかったが、山を囲み、木を伐り山を焼き激しく攻めたてた。
こうして、さすがの「伊佐々王」も傷つき疲れ果て、とうとう草深い渓流に追いつめられた。大勢の兵士に取り囲まれた「伊佐々王」は最後の力を振り絞って荒れ狂い、渓流の岩床に、次々と大きな穴をあけた。
そして、兵士の見守る中で、
「このあと消ゆることなかれ……」
と、岩盤に自分の姿を留めて死んでしまった。
大鹿が横たわった姿に見える岩の穴は、いつの頃からか「鹿が壺」と呼ばれるようになった。
伊佐々王が退治された事を聞き、人々は安心して里へ戻ってきたことから、この地を「安志
(あんじ)」と呼ぶようになったという。

以上が、「峯相記」に記された伊佐々王の伝説だが、この大鹿の話を琵琶などを弾きながら歩いている盲目の座頭がいるが、いつの時代のことか、はっきりしないと記している。
伝説の謎
この伝説のイザサ王に比定されたものとは何なのか?
それは、この鹿ヶ壷の渓流が流れる山の名前に示されているのだがー、
さて、あなたは解けるだろうか?


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