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謎のイササ王伝説
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麻生山の威狭左(イササ)王伝説

麻生山


麻生八幡神社





貞観元年(八五九)六月八日のことというー、
姫路市東部の
麻生山の南の麓から「威狭左(いささ)王」という大鹿が現われた。
大鹿の体長はおよそ一丈(三メートル)、足の長さは、五尺(一・五メートル)ほどもあった。
この鹿が現われる三日ほど前のことー、
このあたりは暗闇に包まれ、姫路の町や飾磨津・大塩のあたりまで黒雲に覆われ、雷鳴がとどろいた。
そして、空が晴れたと思うと、威狭左(いささ)王が現われて舞い踊った。
そこで、その場所を「ししまい」と名付けたという。
この鹿は、安志(あんじ)の庄の「籠関」という所の滝に入り、諸社寺の祈祷で鎮まった。
その場所を、今も「鹿が壷」と呼ぶ、と記されている。

麻生山のイザサ王伝説も、鹿が壷の地名由来伝承になっている。
《播陽万宝智恵袋(播磨史談会編/一九一八年発行)の「増補播陽里翁説」=神戸新聞/平成二十五年十二月二日付け=》
姫路伝承の麻生(あそう)



箕(み)


箕(み)形丘
この伝承の発生場所が「鹿が壷」からはかなり遠い姫路市東部の山なのだが、この麻生(あそう)山が火明命に関係している。
麻生山は、播磨風土記/飾磨の郷の姫路十四丘伝承で現われる丘のひとつに関係した山なのだ。
この伝承に登場するのが、火明命と大汝命(オオナムチ)、火明が起こした風波でオオナムチの船が沈み、箕(み)が流れ着いた丘が「箕(み)の丘」ー、
これが姫路市東部の四郷町見野である。

推定の根拠は「箕(み)」ー、である。箕(み)とは、農業で使う道具のひとつである。

詳細→姫の国への道標第一章

箕(み)の丘は、箕形丘とも記されており、箕形丘とは「箕の形の丘」を意味している。
これを念頭において四郷町見野付近の地形を眺めると、ここに、箕の形をした山系が存在する。
この箕の形の連山に麻生
(あそう)山がある。
麻生山とは、火明命の伝承から始まった山といえるのだ。
イザサとは火明命のことであり、伝説は、火明命をベースにして作られた伝説なのだ。

このイザサの名の神を祀る神社がある。
それが、越前(福井県)敦賀の気比神宮ー、
祭神が
「伊奢沙(イザサ)別命」なのだ。
祭神・伊奢沙別
気比神宮の気比大神とは「竹大神」であり、ウガヤ・フキアエズ命のことである。

西播磨香寺町の神明神社で祀られていた竹宮明神とは、ウガヤ・フキアエズを祀った神社だったのだ。

伊奢沙(イザサ)別とは「イササから別かれた神」という意味で、ウガヤ・フキアエズ命の親神=火明命から分かれた神を指す。
詳細→神代の残像総伝・第七章

火明命は、竹内文献に、その死後、八幡神として勧請されたと記される。
通常、八幡神とは宇佐神宮から勧請された神で応神天皇のこととされるが、八幡神社の祭神は、応神天皇・神宮皇后・比(ひめ)神の三者だ。
神社の祭神は、造化神であって絶対神ではない。
造化神の三者が一体で表わすのが絶対神で、これが神社の名に示された祭神である。八幡神社とは「八幡神(を祀る)社」という意味であり、祀られている三者が一体として表わしているのが八幡神なのである。

応神=八幡神なら、応神天皇は祭神として記されない。八幡神とは、火明命の死後の名前でありイザサ当人なの
だ。西播磨・八幡山の地名は「猪篠(いざさ)」…、充当漢字がいかにも奇妙だが、問題は発音の「イザサ」ー、つまり、
八幡神そのものを指す地名だったのだ。この「イザサ王」が岡山吉備にも存在している。
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播磨風土記
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