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高御位山神社 生石神社 石の宝殿 高御位山 日岡神社
石の宝殿
所在/兵庫県高砂市荒井町千鳥1丁目
背後より

正面


『播磨国風土記』の大国里の条に、
「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている」という意味の記述がある。
聖徳太子が摂政だった時代には、物部守屋は死亡していた。
八世紀初期には、六〜七世紀頃に人の手で造られたと考えられていたらしい。

石の宝殿は、八世紀以前からあったらしいが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、
『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見とされる。



下部


『峯相記』には、生石神社・高御位神社の解説で「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことが
できずに帰っていった」という内容が記されており、この時期には、石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承が生まれている。


『播州石宝殿略縁起』では、
「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。
二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり、国土を守ることを誓った」となり、『峯相記』より具体的な神格が与えられている。

成務天皇11年、羽後国飽海郡平田村生石(現 山形県酒田市大字生石)に当社の分社が作られた。

背後
大岩裏側に屋根状の突起があり、手前に起こすと間口3間半、奥行3間程の家型になる。


秀吉
1579年(天正7年)、羽柴秀吉が三木合戦の折、神吉城攻略のために当神社を陣所として貸与するよう申し出たが、
拒否されたために焼き討ちに逢わせた。当時の宮司は神吉城主の弟だった。
焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原合戦の時に西軍石田三成方の勇将大谷吉継が陣鐘として使用した。
敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進している。
鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。
側面より
高御位山神社 生石神社 石の宝殿 高御位山


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神代の残像/播磨
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