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大江山山麓の神社
鬼嶽稲荷神社 熊野神社
内宮(皇太神社) ▲日室嶽 天岩戸神社
元伊勢内宮(皇大神社)
所在/京都府福知山市大江町字内宮
皇太神社/元伊勢
主祭神 天照大神
左殿・天手力男命(あめのたじからおのみこと)、
右殿・栲幡干々姫命
(たくはたちぢひめのみこと)
由緒(皇大神社編纂) 伝承によればー、
第十代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求め鎮め祀れ」との皇大神の御教えに従い、永久にお祀りする聖地を求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(現奈良県桜井市)を出御されたのが、いまを去る二千数十年前の遥かな昔であった。
そして、まず但波(丹波)へ御遷幸、その御由緒により当社が創建されたと伝えられている。
皇大神は、四年ののち、御神蹟をおとどめなされて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、崇神天皇26年(西暦紀元前4年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになった。
しかし、天照皇大神の御神得を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を内宮の元の宮として「元伊勢内宮」、あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている。
また、雄略天皇22年7月7日に伊勢度会の山田原に当社が遷宮されたので、それ以後、元伊勢と称したともいう。
用明天皇の皇子麻呂子親王が丹波平定ののちに戦勝記念に社殿を造営し、元伊勢と称したともいうが、また、元伊勢ではないともいう。


社殿の造営 社殿の造営は、式年61年目甲子の年にされてきたが、明暦2年4月の年紀をもつ棟札が残り、宮津藩主京極高国による神楽社・御供所・斎蔵などの修造が知れる。
その後二年ごとに改修してきたが、当社は氏子がなく仏性寺・毛原・内宮・二俣・天田内・橋谷・関・河守町・蓼原・公庄・小原田・日藤・夏間各村の計1310戸をもって信徒としたという(神社明細帳)。
江戸期には59軒の社家があり、伊勢神宮でいう「御師」の役割を果たし当社の発展に大きく貢献したが、明治初期に消滅したという。
大江町には、この「元伊勢内宮」のほか、「元伊勢外宮」がある。

▲日室嶽
日室ヶ嶽(別名・岩戸山・城山ともいう)
所在/京都府福知山市大江町字内宮
内宮の遥拝所からの日室嶽。標高四二七メートル
頂上付近に、倭姫の磐座と呼ばれる巨大な岩の構造物があるとされ、昭和初期、偶然に山頂に至った(神体山で山道がなく、通常、登山は不可)数名の人たちによってその存在が確認されているという。
近くからは縄文時代のものと推測される祭祀跡が見つかっており、縄文時代には岩戸山が信仰の対象となってらしいという。
鬼嶽稲荷神社から見た日室嶽(中央・背後から)

日室嶽(左)と内宮の山(右)

天岩戸神社
所在/京都府福知山市大江町字内宮

天岩戸神社は、大江町の元伊勢三社[皇大神社(内宮)・豊受大神社(外宮)・天岩戸神社]の一つで、伊勢の皇大神宮の元宮として、古くからこの地方の象徴的存在として崇敬されてきた。
日本のピラミッドと言われる日室ヶ嶽のふもとの渓谷の谷底、宮川の河岸に建っている。
由緒 天の岩戸神社は、往昔、地神の元始神天照大神籠居ましし霊地にして真名井ヶ原・真名井ヶ池・楽の堂・産盥・産釜・神楽岩・御座石・鶏鳴岩・鱒池・鮎返りの滝等の地名旧蹟あり。
殊に産盥の霊水は、平常満水することなく或は減水することなく且つ腐水することかってなく、此の霊水は、干魃の際其の霊水の少許を水上に注ぐ時は、如何なる干魃時と雖も神雨不思議に降り来り庶民安堵の胸を撫するにより往昔より今に至るも尚其の慣例絶へざるなり。


元伊勢のご神体山である日室ヶ嶽は神の山なので、原則的に神のテリトリーに入ることは禁止されている。
よって、基本的に祭りを行なう際は山麓に祭祀場を設け、そこに山頂に宿る神を降臨させてお迎えするという方式をとっていた。
それで、このような場所に天の岩戸神社が建てられたという。

宮川

鬼嶽稲荷神社 熊野神社
内宮(皇太神社) ▲日室嶽 天岩戸神社

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