南部 山王神社 大歳神社 薬王子神社 笠倉神社
■大嶽山南西側
鍛冶/山王神社
所在/兵庫県神崎郡神河町鍛冶
山王神社
祭神は明示されていないが、「山王」は大山咋神のことである。
●山王とは
日本の神のひとつ、大山咋神を指す。
他にこれを氏神とする神社の別称や神社に由来する地名などで用いられる事も多い。各地の日枝神社・日吉神社の別称。
●神道の流派のひとつに「山王神道」がある。
山王神道(さんのうしんとう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派で、狭義には、江戸時代の天海より以前のものを山王神道という。
最澄が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。
唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として日吉山王権現を祀った。音羽山の支峰である牛尾山は、古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され[1]、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。
また、古事記には「大山咋神。亦の名を、山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。
日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合したのが山王神道である。山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとされ、神仏分離では大山咋神とされた。また、「山」の字も「王」の字も、三本の線と、それを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。
●大山咋神(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)
別名 山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。
大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。
名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味する。
『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。
比叡山の王という意味で
山王(さんのう)とも呼ばれる。
天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、後に天海が山王一実神道と改めた。太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。
江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。
日枝神社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。
山王は二神の総称である。
大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている。
●大山祇神 オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)
日本神話に登場する神で別名 和多志大神、酒解神。
オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。
神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた。
その後、野の神である鹿屋野比売神(カヤノヒメ、野椎神)との間に以下の四対八神の神を生んでいる。
ヤマタノオロチ退治で、スサノオの妻となるクシナダヒメの父母、アシナヅチ・テナヅチ(足名椎命・手名椎命)は、オオヤマツミの子と名乗っている。
その後、スサノオの系譜で、オホヤマツミ神の娘であるカムオホイチヒメ(神大市比売神)との間に大年神とウカノミタマをもうけていると記している。
また、クシナダヒメとの間の子、ヤシマジヌミは、オオヤマツミの娘のコノハナチルヒメ(木花知流姫)と結婚し、フハノモヂクヌスヌを生んでいる。フハノモヂクヌスヌの子孫が大国主である。
天孫降臨の後、ニニギはオオヤマツミの娘であるコノハナノサクヤビメと出逢い、オオヤマツミはコノハナノサクヤビメとその姉のイワナガヒメを差し出した。
ニニギが容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。
 
■大嶽山南側
柏尾/大歳神社
所在/兵庫県神崎郡神河町柏尾

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