●秦氏概要

秦氏は、6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。
河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。
また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。
聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。

610年、新羅の使節を迎える導者の任に当る。
644年、駿河国富士川周辺で、大生部多(おおふべのおお)という者を中心に「常世神」を崇める集団(宗教)があったが、河勝が追討した、とされる。

河勝が没したのは赤穂の坂越である。
一説には、流罪に遭ったためという。
坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。
なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。

本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名が残る。
さらに、右京区西京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。
この地域は明治の初めまで川勝寺村と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していたという。
秦氏の後裔を称するものは多く、戦国大名で知られる土佐国の長宗我部氏が有名で、幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。


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