秦氏関連
弓月君(ゆずのきみ)
生年・没年ともに不詳。
『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。新撰姓氏録では融通王ともいう。
『日本書紀』では応神天皇十六年(十四年とも?)に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したという。
秦の皇帝(始皇帝とされる)五世の孫であり、渡来後、日本に養蚕・機織を伝えたとされる。
秦酒公(はた の さけのきみ)
生年・没年ともに不詳。大和時代の渡来人とされる。
三世紀末、百済から渡来した弓月君(ゆずのきみー融通王)の孫・普洞王の子という。
一族が分散することを憂い、雄略天皇(在位四五六ー四七九年)の詔を受けて秦の民を受けて首長となる。
養蚕・絹織に励み、庸調として献納した絹布が山積みになったため、その賞として、太秦(うづまさ)の姓を賜ったと記紀に記される。
秦 河勝(はた の かわかつ)
生年没年ともに未詳。
一説に、赤穂の大避神社の創建が六四七年とされている点から、六四七年ごろの没とされている。
六世紀後半から七世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族。
姓は造で、秦丹照、または、秦国勝の子とする系図がある。
秦河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。
また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったともいう。
聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。
六一〇年、新羅の使節を迎える導者の任に当る。
六四四年、駿河国富士川周辺で、大生部多(おおふべのおお)という者を中心に
「常世神」を崇める集団(宗教)が流行したが、これを河勝が追討したとされる。

没したのは、赤穂の坂越。
坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。
なお、京都の広隆寺の隣接地に大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って広隆寺境内から現社地へ遷座したもの。
本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦に名を残す。
京都右京区西京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。
この地域は明治の初めまで川勝寺村と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していたという。
秦氏の後裔を称するものは多く、戦国大名で知られる土佐国の長宗我部氏が有名で、幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。
猿楽などに従事した芸能の民にも河勝の裔を名乗る者は多く、代表的なものとしては金春流が挙げられる。
彼らの伝承では、河勝は猿楽の祖でもある。
能楽の観阿弥、世阿弥親子も河勝の子孫を称した。また、現在楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるという。
秦氏の概要
古代の氏族で、六世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。

日本書紀では、応神天皇十四年に弓月君(ゆづきのきみー新撰姓氏録で融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)、または、新羅から来たのではないかとも考えられている。
(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。
一説には、五胡十六国時代に?族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたとの説もある。
ハタ(古くはハダ)という読みについて、朝鮮語のパダ(海)によるとも、機織や新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。

その後、大和の他、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮した。

山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。
雄略天皇の時代に、秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部・秦人の統率者となったという。
欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしいとされる。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。
河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、
付近の古墳群からは五から六世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。
秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神宮が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある。
秦河勝墓はこの地にある。

山背国太秦に秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は六世紀頃のものである。
秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は六世紀頃と推定される。
山背国において、桂川中流域・鴨川下流域を支配下において発展に大きく寄与した。
山背国愛宕郡(現在の京都市左京区・北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。
秦氏は松尾大社・伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。

秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。
彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建した。
ほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名がある。

『隋書』に「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」とあり、風俗が中国と同じである秦王国なる土地(瀬戸内海沿岸付近?)が紹介されている。
佐伯好郎は一九〇八年(明治四十一年)、『地理歴史 百号』に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」で、秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえた。
八色の姓では忌寸の姓を賜り、その後、忌寸のほか、公、宿禰などを称する家系があった。
平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったともいう。
平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。
東家・南家などは松尾大社の社家に、西大路家・大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。
伏見稲荷大社の社家となった羽倉家・荷田家も秦氏の出自という説がある。
また、高僧を含めて僧侶にも秦氏の出身者が多い。

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