秦氏関連
大避神社の疑問
以上が一般的な大避神社の解説だが、この大避神社には奇妙な疑惑が付きまとう。
祭神の大避大神は、秦河勝が死後に神として祀られたと云われている。
ーが、この大避大神とは秦河勝一人のことを指しているのかどうかー。

秦河勝の前代に「秦酒公」という人物がいる。
漢字が異なるので一足飛びに結びつかないが、この「酒」は、「避」であり、「辟」でもある。
京都の大酒神社も過去には、「大辟神社」と記されていたという。
千種川流域には、現在も「大辟」と表記している神社もある。
すると、「秦酒公」は「秦辟公」であり、「秦避公」でもある。
この中の「秦」は秦氏の秦であり、「公」は尊称であり、この人物の名前が、「避」なのかー。


形だが、オオザケは秦河勝の生きている内からあったようなのだ。つまり、大避大神は秦河勝のことではない。
そしてこのオオザケ神社が赤穂、相生、上郡、備後地方まで数え切れないほど存在する。そちらは大避を大辟と表記して大辟神社であり、また、これを大酒と表記した神社が京都にある。秦氏の氏寺・広隆寺に隣接した大酒神社である。
(大辟は「死刑」という意味だという)
このオオザケ神の正体はどこにも説明されていない。
さらに大酒は神社だけでなく集落地名として上郡にある。
大避は大辟でも大酒でも何でも良かった、要は当て字で、必要なのは「オオザケ」という発音だったのだ。

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