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所在/岡山県岡山市北区一宮 |
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祭神 | 天御中主大神 高御産巣日神 神産巣日神 天之常立神 国之常立神 伊邪郡岐 伊邪那美大神 天照大御神(気比大明神・気比比売大神) 月読大神 素戔嗚大神 建日方別大神 大山津見大神 宇迦之魂大神 大国主命 事代主命 少名彦命 神倭磐余彦天皇 天津神 国津神 八百萬神々 |
備中一宮・吉備津神社(岡山)から分祀されたと見られている。 時期は、備後一宮・吉備津神社(広島)と同時期で、大化改新後、吉備国が備前・備中・備後に分かれた頃といわれるが、社伝ではそれよりももっと早くから存在していたとしている。 |
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史略 | 当社の社殿の創建は、第十代崇神天皇の御代とされ、大吉備津彦命を鎮祭する備前国の古社で、昭和三年には国幣小社に列せられる等その由緒は史乗に赫々たる跡を留めている。 古くは、歴代朝廷をはじめ、武門武将一般衆庶の崇敬頗る厚く、天正年間の有名な高松城水攻にあたっては、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、戦捷祈願に礼を捧げられており、江戸時代に入っては池田備前岡山藩主、家老一門の鄭重な待遇を受け、次々と造営修復が行われている。 然るに、昭和五年不慮の火災が起こり、華麗宏壮を誇った社殿は、御本殿、随神門以外悉く炎上した。 氏子、県内外崇敬者の復興造営に対する奮闘努力により、昭和十一年拝殿、祭文殿、渡殿、神饌所、脇門等主なる建造物が竣成され、現代に至っている。 なお、平安時代の末期、諸国に一ノ宮の称が起るや、当社も一ノ宮と称し、鎮座地の地名も神社に因んで一ノ宮と呼ぶに至っている。 |
境内案内 | 当神社は朝日の宮と称され、吉備之国最古の大社で古代信仰太陽、月星、泉、磐座、巨木を仰ぎ、山は神体山にして巨大な磐座磐境を有し、超太古時代は気比太神宮、吉備社、吉備津神社、吉備津宮、朝廷直属の一品一宮の社宮として、朝廷は勿論、諸民にも崇められて来た。 社殿が出来たのは、天吉備津彦命神去りました崇神天皇六十年で、御神紋は太陽と月の重なりあった金環色を表現した二重丸の中に、四葉木瓜(伊勢皇大神宮と同じ御神紋)が入り、又、九七の桐は本州一宮、天御中主大神を始め造化三神国産みの大元の神々又国の崇祖神と仰ぐ天照皇大御神(古代当社では気比大明神、気比比賣之大神)を祀る社であることが示され、亦御神紋十六菊は天皇家直の男神(天皇皇子)の方々、五七の桐は直の女神の方々を祀る印とされていて、御祭神、由緒社格の深遠さを示しています。 主祭神は、天御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神(造化の三神)。 天之常立・国之常立神。伊邪郡岐・伊邪那美大神。 天照大御神(気比大明神・気比比売大神)、月読大神、素戔嗚大神、建日方別大神、大山津見大神、宇迦之魂大神、大国主命、事代主命、少名彦命、神倭磐余彦天皇、天津神、国津神、八百萬神々等を祀り、又、大吉備津日子命、御相殿には御子吉備津彦命(吉備津武彦命)、孝霊・孝元・開化・崇神各天皇、彦刺日方別命、天足彦国押人命、大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦命(鉄の神)、大山咋命、山頂龍神社に王龍神(天の龍王神・地の龍王神)を祀り、本州(大八州)一品一宮、気比太神宮、大社吉備津宮として、県内はもとより近郷まで宗祖神、總鎮守としていかに崇められていたかがうかがわれます。 (注)当社が昔、気比太神宮と言われていたことを伝承者が伝えていましたが、古文書を松田氏の部下に焼かれる前までは、上記の社名があったと思います。明治二十年項まで大守大藤内家が宮司をされ、その後昔の分家延友の大守家が受け継ぎ明冶三十年項宮司をされ、当時は大社吉備津宮吉備津神社(太郎太殿)と呼ぱれていた。 昭和天皇御即位国幣小社昇格の頃現在の吉備津彦神社と呼ぱれるようになったものと思います。 (現在も地名が吉備津彦神社の境内のみ吉備中山となっています。) |
吉備国・出雲国は、広域地名 | |
※吉備国は、現在は岡山のように思われているが、その範囲が異なる。 吉備国とは、広域の国名で、広島県南部から美作・播磨までを含む国名だったと思われる。 吉備国の中に、美作国と、その東に播磨国があった。 のちに、美作国の南ー瀬戸内側が、備前・備中・備後に分かれた。これが大化改新の後らしい。 出雲国の範囲は、現在の島根県と鳥取県の範囲を指す広域の国名。 のちに、鳥取県が伯耆国と因幡国に分かれた。 |
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