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温羅(うら)の伝説
この国が未だ統一されていないころー、
異国の鬼神が飛行して吉備国にやって来た。
彼は、百済の皇子で名を、
温羅(うら)と言い、吉備冠者とも呼ばれた。
両眼は爛々として虎狼のごとく、茫々たる鬢髪は赤きこと燃えるがごとく、身の丈一丈四尺にも及ぶ。膂力は絶倫、性は剽悍で凶悪であった。
温羅(うら)は、やがて備中国の新山に居城を構え、さらにその傍らの岩屋山に楯(城のこと)を構えた。
西国から都へ送る貢物を乗せた船や、婦女子をしばしば掠奪したので、このあたりの人々は彼のことを鬼と呼び、その居城を鬼の城(きのじょう)と恐れ、都に行ってその暴状を天皇に訴えた。 
朝廷はたいへんこれを憂い、武将を遣わして温羅を討たせようとしたが、温羅は兵を用いることがすこぶる巧みで、出没は変幻自在、機敏な上に頭がよく、討伐は容易ではなく、軍勢はむなしく都に引き返した。
そこで次は、武勇の聞こえ高い五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)が派遣されることとなった。
五十狭芹彦命は大軍を率いて吉備国に下り、まず、吉備の中山に陣を敷き、西は片岡山(現在の楯築遺跡)に石楯を築いて、防戦の準備をした。

そして、いよいよ温羅と戦うこととなったが、もとより変幻自在の温羅のこと、戦うこと雷荵の如くその勢はすさまじく、
さずがの命も攻めあぐねた。
殊に不思議なことには、命が射かけた矢はいつも温羅の矢と空中で噛み合うて海中に落ちてしまうことであった
(現在の矢喰宮の場所という)。

そこで命は考えに考えられ、大きく強力な弓をもって一度に二つの矢を射ることを考えつかれたところ、
これにはさすがの温羅も不意をつかれ、一つの矢はいつものように空中で噛み合って海に落ちたが、
もう一つの矢は命の狙いどおり、見事、温羅の左目に命中した。
温羅の目から噴き出た血潮はこんこんとして流水の如く迸った。
総社市阿曾から流れ、足守川に注ぐ
血吸川が、その遺跡であるという。
この命の一矢に恐れおののいた温羅はすぐさま雉(きじ)に姿を変えて山中に隠れようとするが、
機敏なる命は鷹となってこれを追いかけられたので、温羅は鯉に化け血吸川に入り逃げようとした。命は、たちまち鵜(う)となりこれを噛み揚げ、ついに、温羅を捕らえることに成功した。
その場所に、
鯉喰神社(倉敷市矢部の氏神)がある。

温羅は、ついに命の軍門に降り、
「これからは、吉備冠者を名乗るが良かろう。」
と、その名を命に献ったので、それからのち、命は吉備津彦命(きびつひこのみこと)と改称された。
命は温羅の頭を刎ねて串にさして曝した(
岡山市首村がその遺跡という)。

しかし、不思議なことに、その首は何年たっても大声を発して唸り響いて止まない。
命は部下の犬飼武(イヌカイタケル)に命じて犬にそれを食わせたが、それでも肉が尽き髑髏となってもなお吠え止まず、
命はその首を釜殿の竃の下八尺を掘って埋めた。
ーが、なお、13年間唸りは止まず、近郷に鳴り響き人々を恐れさせた。

ある夜、命の夢に温羅の霊が現れて、
『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして命の釜殿の神饌を炊がめよ、若し世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸あれば裕かに鳴り、
禍あれば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れ給え。
われは、一の使者となって四民に賞罰を加えん』
と告げ、ようやくこの国の人々に平和がおとずれた。
吉備津神社の御釜殿は温羅の霊り濳るもの、その精霊を「丑寅みさき」といい、

これが現在もおこなわれる神秘な
鳴釜神事のおこりという。
御釜殿(おかまでん)
吉備津神社の拝殿から南に続く長い回廊を経て、右手に見える入母屋造りの建物。
死後もうなり続けた温羅の首は、このかまどの八尺(2.4m)下に埋められ、迷い事ある人にうなり声をたてて吉凶を告げると伝えられている。
かまどにかけられた大きな釜から湯気が上がってくると神官と巫女が祝詞をあげる。
釜の音が大きく鳴れば「良い知らせ」、音が低かったり、鳴らなかったりすると「悪い知らせ」と言われている。

鳴釜神事は、毎週
金曜日以外は毎日行われている。
鳴釜神事に仕えるお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅(うら)が寵愛した女性と云われる。
鬼の城の麓に
阿曽の郷があり、代々、阿曽の郷の娘がご奉仕している。
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