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吉備津彦神社/岡山
所在/岡山県岡山市北区一宮
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吉備国が三国に分離された後の大同元年(806年)ごろ、吉備国一宮だった吉備津神社(備中一宮)より勧請されたものと思われる。
祭神は
大吉備津日子命で、別名を、吉備津武彦命とも云うらしい。

備前一宮・吉備津彦神社の社殿の創建は、第十代崇神天皇の御代とされる。
平安時代の末期、諸国に一ノ宮の称が起るや、当社も一ノ宮と称し、鎮座地の地名も神社に因んで一ノ宮と呼ぶに至っている。
古くは歴代朝廷をはじめ、武門武将一般衆庶の崇敬頗る厚く、天正年間の高松城水攻にあたっては、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、戦捷祈願に礼を捧げた。
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吉備津神社/岡山
所在/岡山県岡山市北区一宮
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西道(山陽道)に派遣された大吉備津彦命は、美作・備前・備中・備後を平定し「吉備国」とした(日本書紀)。
古事記では、第七代・孝霊天皇の皇子・比古伊佐勢理比古命(大吉備津彦命)は、弟・若日子建吉備津彦命と協力して吉備の国を平定した。
社伝では、その後、吉備の中山の麓に「茅葺宮」を造って住み、281歳の時、この宮で薨じ、墓が中山の山頂に造られた。
五代の孫である加夜臣奈留美命が「茅葺宮」に社殿を建てたのが吉備津神社の起源とされている。
備中国と備前国の境にある吉備中山(きびのなかやまの北西の麓に北面して鎮座する。
元々は、吉備国の総鎮守であったが、吉備国が三国に分割されたときに備中国の一宮となり、備前国・備後国に分霊が勧請されて各国の一宮となっている。
祭神の
大吉備津彦命は、第十代・崇神天皇の御代、朝廷に従わない遠国の平定のため派遣された皇族の四人・四道将軍の一人である。

この神社の祭神伝承が、温羅(うら)退治伝説で、この伝承と鬼ノ山城とがつながっている。
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吉備津神社の名は中社吉備津神社とあがっている。
これは神社は三社でひとつの中社の表示である。
上社と下社の表示はないが、
上社が、備前一宮の吉備津彦神社と思われる。
もう一社の下社が、
吉備津神社の南にある天皇稜下の新宮神社ではないかと思われる。
三社の上には、龍王山・茶臼山などの高峰があり、三つの山は三ツ星配置になっている。
宮神社上の高峰は名無し山である
しかし、新宮神社は隠された神社らしい。
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吉備津神社/備後
所在/広島県福山市新市町宮内

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さらに、備後國一宮として広島県福山市に吉備津神社があり、通称を一宮(いっきゅう)さんとも云う。
吉備国が三国に分離された後の大同元年(806年)、吉備国一宮だった吉備津神社より勧請して創建されたと伝えられる。
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オオカミ※吉備津彦神社上の龍王山に元宮の磐坐がある。

※神社上の龍王山・茶臼山と新宮神社上の名無し山は三ツ星配置になっている。

※三山のほかに、4つ目の山がある。
new兵庫川辺の里の神前山と同じ形であり、
new兵庫宍粟市の伊和神社の4山配置とも同じ。
new4つ目はピラミッドの奥の院/古代史BOOK
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