鳴釜神事
なるかましんじ
鳴釜神事(なるかましんじ)とは、
備中一宮・吉備津神社に伝わる特殊神事で、吉備津神社の祭神・吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事である。
神事は、釜の上に蒸篭(せいろ)を置き、その中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた時に鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事である。
吉備津の釜、御釜祓い、釜占い、等ともいい、元々、吉備国で発生したらしいという。
一般に、強く長く鳴るほど良いとされ、原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する。
女装した神官が行う場合があるが、盟神探湯・湯立等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い。
現在でも、一部の神社の祭典時や修験道の行者、伏見稲荷の稲荷講社の指導者などが鳴釜神事を行う姿がある。
いつの頃から始まったかは不明だが、古くは、宮中でも行われたといい、吉備津神社の伝説では、古代からあったという。
また、初期古墳上に見られ、埴輪の起源とされる特殊器台形土器は、この御釜と関係があるのではとの説もある。
起源
鳴釜神事の起源として、温羅(うら)の伝説が伝えられている。
吉備国に、温羅(うら)という名の百済の王子がやって来て土地の豪族となったが、鬼となり悪事を働いたため、
大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人・吉備津彦命に首を刎ねられた。
首は、死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。
これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、
温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという。

鬼の城ふもとの阿曽の郷
鳴釜神事に仕えるお婆さんを
阿曽女(あぞめ)といい、温羅(うら)が寵愛した女性と云われる。
鬼の城の麓に阿曽の郷があり、代々、阿曽の郷の娘がご奉仕している。
また、阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換するが、それに奉仕するのも、阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもあった。

神事
鳴釜神事は、神官と阿曽女と二人にて行う。
阿曽女が釜に水をはり、湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがっている。
神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、
セイロの中で器にいれた玄米を振る。
そうすると、鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞を奏上し終わるころには音が止む。
この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断するが、その答えについては、奉仕した神官も阿曽女も何も言わない。
自分の心でその音を感じ判断するものと云うー。

文献
文献的には、多聞院日記にみられ、これが一番古いとされる。
永禄十一年(1568)五月十六日に、「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、
志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」ということが記されており、
少なくとも、室町時代末期には都の人々にも聞こえるほど有名だったらしい。
江戸時代の上田秋成の雨月物語にも『吉備津の釜』として一遍の怪異小説が載せられている。
釜鳴という神事は、王朝以来、宮中をはじめ諸社にもあったことが文献にもみられる。
釜を焼き湯を沸かすにあたって、時として音が鳴るという現象が起こると、そこに神秘や怪異を覚え、
それを不吉な前兆とみなし祈祷や卜占を行ったらしい。そして、陰陽道的解釈が加えられていったという。

上田秋成は、『雨月物語』で吉備津の釜という物語を書いている。
吉備の豪農の放蕩息子正太郎が、神主の娘磯良(いそら)との婚儀の吉凶を占う時、釜が全く鳴らなかった。結局、不誠実な正太郎を恨んで亡霊となった磯良に、正太郎がとり殺されるという物語で、鳴釜神事が効果的に使われている。

磯良の名は、
阿曇磯良を彷彿とさせるが、上田秋成が何故この名を使用したかは不明である。
阿曇磯良(あづみのいそら・安曇磯良)は、神道の神。海の神とされ、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされ、磯武良(いそたけら)と称されることもある。

吉備津彦命

吉備津彦命とは、第七代・孝霊天皇(紀元前290年ー紀元前215年)の第三皇子で、当時、吉備地方を支配していた豪族温羅(うら)一族を攻め滅ぼした人物とされ、桃太郎伝説のモデルとされている。

もどる⇒備中一宮・吉備津神社 もどる⇒鬼ノ城

PAGE-TOPへ
神代の残像
inserted by FC2 system