流し雛
東井神社
所在/鳥取県鳥取市用瀬(もちがせ)町別府
東井神社/用瀬(もちがせ)
祭神 スサノオ
妙見大明神

南西を向く遥拝所

●用瀬(もちがせ)の流し雛

ひな神社

もちがせの流しびな “もちがせの流しびな”は旧暦の三月三日のひなまつり、男女一対の紙雛を桟俵にのせ、菱餅や桃の小枝を添えて、災厄を託して千代川(せんだいがわ)に流す。1年間の無病息災と幸せを願う情緒豊かな民俗行事。

もともと物忌みの行事で、紙などで人形(ひとがた)を作り、これで体をなで、災いを人形(ひとがた)に移して川や海に流す行事から生まれた風習である。
この行事がいつの頃から始まったのか定かではないが、「源氏物語」に源氏の君が祓いをして人形(ひとがた)を舟に乗せ、須磨の海へ流すという著述があり、雛流しそのものの原型は、遠く平安時代にさかのぼるという。
リンク⇒流しびなの館

加太の淡嶋神社 流しひなの原型は「災いを人形(ひとがた)に移して流す」という点から、和歌山県和歌山市加太の淡嶋(あわしま)神社の災厄を託して神社に奉納する人形供養と思われる。

加太の淡島神社の祭神は、少彦名命・大己貴命・息長足姫命(神功皇后)になっているが、淡島神社ではこの中の
大己貴命が月讀命と同神とされている。
主祭神の少彦名命は、医薬の神であり、その神徳が強調され、特に婦人病に効果ありとされた伝承による。
淡島神社の起源伝承は、神話で日本を創造したと伝えられる少彦名(すくなひこな)命と大己貴(おほなむじ)命の祠が、加太の沖合いの友ヶ島のうちの
神島(淡島)に祀られたことが始まりとされる。
淡島神の名は、古事記の国生み神話で流された淡島から来ている。
そして、神功皇后(息長足姫)が懐妊の身で、遠征を行った時、赤白の帯下に悩まされ、薬草を試みたところ、平癒したという伝承で、神功皇后が少彦名命の雛型を奉納したことにより、お雛様の神とされた。

婆利塞女(ばりさいじょ) 別説に、淡島神は少彦名命ではなく、天照の6番目の娘の「婆利塞女(ばりさいじょ)」であるという。
彼女は、住吉大神の妻だったが帯下の痼疾があったため棄て去られ、加太の地に流れ着いて祀られたという伝承がある。それで、婦人病やお雛様の神と呼ばれている。

以上が、加太・淡嶋神社の伝承だが、この伝承には奇妙な混同がある。
その一、祭神の大己貴命が月讀命とされている。記紀では、月讀命はスサノオのことである。
その二、祇園信仰の牛頭天皇の妻の名前が婆利塞女(ばりさいじょ)であり、牛頭天皇は神道のスサノオのこととされる。
つまり、加太・淡嶋神社の祭神は、これらが混同したものらしい。

検証・用瀬の流しびな 「流しびな」の行事そのものが神社の行事を起源としていることは確かである。用瀬の流しびなも、元々が、東井神社の行事から始まったものと思われる。
東井神社の祭神は、
八坂神社の神を勧請している。
京都の八坂神社は祇園神社で祭神は牛頭天皇である。
牛頭天皇は仏教習合の名前で、明治の神社令でスサノオに変更された。
用瀬の流しびなは、牛頭天皇の妻の婆利塞女(ばりさいじょ)から生まれたものらしい。スサノオの妻は櫛稲田姫命とされる所からすれば、婆利塞女(ばりさいじょ)は=櫛稲田姫ということになる。

ところがこの神社は、妙見大明神と呼ばれたと云う。
スサノオが妙見神という話はない。
妙見神に比定されるのは、天御中主である。

用瀬の妙見大明神の原点は別にあったのではないかー
それが、⇒三国山である。さらに、淡島神の淡島とは・・。

●この詳細は
続・姫の国への道標
神代の残像
●三角山
用瀬(もちがせ)町の東にそびえる三角山


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神代の残像/那岐山ライン
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