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大江山
鬼嶽稲荷神社 熊野神社
内宮(皇太神社) ▲日室嶽 天岩戸神社

左・鳩ガ峰、右・鍋塚の案内板。鍋塚と鳩ガ峰の間まで車で上れる。




























































●大江山(おおえやま)
大江山は、京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町・福知山市・宮津市にまたがる連山で、標高は833m。
大江山の山名はひとつの山の名前ではなく、千丈ヶ嶽・鳩ヶ峰などの幾つかある峰の総称を指す。
全体を大江山連山と呼び、大江山と呼ばれる頂上をもった峰があるわけではない。
連山には北東寄りから鍋塚(なべづか、763メートル)、鳩ヶ峰(はとがみね、746メートル)、千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ)、赤石ヶ岳(あかいしがたけ、736.2メートル)と呼ばれる峰がある。
千丈ヶ嶽が最高峰で832.5メートルの標高があり丹後地方最高峰である。

●鬼退治伝説
大江山には3つの鬼退治伝説が残されている。
一つめは、『古事記』崇神天皇の弟の日子坐王(彦坐王)が土蜘蛛陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。
二つめは、聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話、
三つめが、有名な酒呑童子伝説。

これは能の演目『大江山』(五番目物の鬼退治物)にもなっている。
これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃鉱となった銅鉱山跡に1993年(平成5年)大江町(現在は福知山市の一部)によって日本の鬼の交流博物館が作られた。
酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この大江山の説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もある。

●鬼退治伝説の意味
大江山の位置する丹後地方は古くから大陸との交流が深く、帰化人は高度な金属精錬技術により大江山で金工に従事し、多くの富を蓄積していた。
これに目を付けた都の勢力は兵を派遣し、富を収奪し支配下に置いた。
このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかという説と、帰化人が寄り集まって山賊化して非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説がある。

●大江山の鬼伝説
丹波と丹後がまだ分立せず「大丹波時代」といわれた古代、この地方は大陸の文化をうけ入れ、独自のすぐれた古代文化をもっていた。
しかし、平安京が政治の中心となってからこの地方は、都に近い山国として日本の歴史の中で、王城の影の地域としての性格を色濃くにじませるようになる。
隠田集落であると伝承する山里が散在することは、そのことを如実に物語っている。
また、王朝時代、大きな役割を果たした陰陽道で、乾(北西)は忌むべき方角とされたが、当地は都の乾の方角に当たっていた。
酒呑童子や羅生門の鬼に代表されるように、京の都に出没する鬼は、王権を脅かす政治的な色合いの強い鬼である。
天皇が勅命を下し、武将に鬼を退治させる物語・・・それは、王権が自らの権力を誇示し、その物語を通して王権を称掲する手段にしようとして、つくり出したものではなかったのか。
あるいは、中世に入り、地に堕ちた王権を支えようとした人々の願望としての王権神話ではなかったか。

丹波山地の中で、もっとも著名な山であり高山でもある大江山連峰は、時代によって与謝の大山・三上ヶ嶽・御嶽・大江山と名をかえつつも、丹波と丹後を扼する要地にそばだってきた。
ここに鬼退治伝説が三つ残されていることは偶然ではないのかもしれない。

●大江山の鬼伝説・その一
「陸耳御笠」−日子坐王伝説―
大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠」に記された陸耳御笠の伝説である。
青葉山中にすむ陸耳御笠が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山へ逃げこんだ、というもの。
「丹後風土記残欠」とは、8世紀に国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、十五世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。

この陸耳御笠は「古事記」崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。
土蜘蛛は穴居民とか、先住民とかいわれるが、土蜘蛛は、大和国家の側が征服した人々を異族視してつけた賎称である。

陸耳御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、
「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、
福井県から鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されている。

一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば、古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としている。
「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。
「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。
陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいる。   

●大江山の鬼伝説・その二
「英胡・軽足・土熊」―麻呂子親王伝説―
用明天皇の時代・・六世紀の末ごろのこと。
河守荘三上ヶ嶽(三上山)に英胡・軽足・土熊に率いられた悪鬼があつまり、人々を苦しめたので、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ悪鬼を討ち、世は平穏にもどったという。
大江町の如来院や清園寺をはじめ、寺社の縁起として、あるいは地名由来として、麻呂子親王伝説の関連地は七〇カ所に及ぶといわれる。

麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる。
文献によっては、金丸親王・神守親王・竹野守親王などとも表記され、麻呂子親王伝説を書きとめた文献として、最古のものと考えられる「清園寺古縁起」には、麻呂子親王は、十七才のとき二丹の大王の嗣子となったという。

この伝説について、麻呂子親王は「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ヶ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原因となった怨霊=三上ヶ嶽の鬼神の崇りを鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。
この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。
酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。

●大江山の鬼伝説・その三
「酒呑童子」―源頼光の鬼退治―
酒呑童子は、日本の妖怪変化史のうえで最強の妖怪=鬼として、今日までその名をとどろかせている。
平安京の繁栄は、ひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。
その暮らしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子である。

酒呑童子は史実に登場しない点から、この話はフィクションである。
酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(十四世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、後にこれを元にして、いろいろな物語がつくられ、民衆に語り伝えられていった。
大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。
「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興味深い内容がある。

さらに、頼光との酒宴の席での童子の語りにー、
比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出されて大江山にやってきた」とある。
また、「仁明天皇の嘉祥二年
(八四九)から大江山に棲みつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを待っていた」という。

以上、ここまでが大江山の鬼伝説に関する様々の解説である。


●伝教大師(でんぎょうだいし)
伝教大師とは、比叡山・延暦寺を開き、天台宗の
最澄(さいちょう)の諡号(しごう)である。
最澄の比叡山・延暦寺とは、比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称をいう。
延暦七年
(七八八年)に、最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされている。

●山王権現
このとき、延暦寺の地主神として祀ったのが「山王権現」である。
『古事記』には「大山咋神。
亦の名を、山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載がある。
さらに、三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。
日枝山(比叡山)の山岳信仰・神道・天台宗が融合した延暦寺の鎮守神が山王権現である。
別名を、日吉大社(ひよしたいしゃ・ひえたいしゃ」)とも云い、滋賀県大津市坂本の日吉・日枝・山王神社の総本宮には、西本宮と東本宮があり、西本宮に大己貴神(大国主神・大物主神)、東本宮に「大山咋神」が祀られている。
西本宮の大己貴神(大国主神・大物主神)は、近江京遷都の翌年である
天智天皇七年(六四五)、大津京鎮護のため大神神社の神を勧請したとされる。

●大山咋神
一方の東本宮の大山咋神についてはー、
牛尾山(八王子山)の山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地だった。
磐座を挟んで二社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は、
崇神天皇七年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。
三宮神社に対する里宮は、樹下神社である。
大山咋神は、元からこの地にいた神とされている。
この「大山咋神」が「山の麓を守る神」であり、後世の秦氏がこの神を奉じている。
松尾神社では大山咋神として祀り、大避神社で大避神として祀っているのが大山咋神の前身である
闇おかみ神・高おかみ神であり、三神は同一神であり、それが山の峰の神とされる辟(ダケ)神のことである。

●ダケ神
ダケ神は明らかに、先住民族が奉じた神なのである。
先住民族が奉じた神を守り神とした最澄が、はたして、先住民を追い払ったのだろうかー。
比叡山のある坂本の琵琶湖周辺は渡来人の寺の多いところであり、最澄の出身も近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)とされており、彼の祖先もまた、渡来人だった可能性がある。

●八四九年は最澄の死後
大江山の鬼たちは、比叡山から追い出されて、八四九年ごろから大江山へやって来たとしている。
最澄の死は、八二二年六月二十六日とされる。
比叡山が先住の渡来人を追い払ったのは最澄の死後だったかもしれない。
最澄の死後に、比叡山で何かの政変があったのではないかー。

●酒呑童子の名前
大酒飲みの鬼という意味合いが見られ、悪い・酒飲みである。
京都の大酒神社の「大酒神」を指しているのではないかと思われる。
「大酒神社」の大酒が当て字で、元は「大辟」だった。
「大辟」が「オオダケ」なのか、「オオザケ」なのかは不明のはずである。
京都の大酒神社が「酒」の文字を用いたことから「オオザケ」と発音された。
酒呑童子の名前の意味が、
古い「大酒(大辟)神」を奉じた悪者の先住民族を意味してくる。

●狒々退治の話
酒呑童子を退治する話は、のちの時代の岩見重太郎の狒々退治の話とまったくの相似形であり、伊勢神道の狒々退治の話ともまったく同じ骨子である。

●岩見重太郎の狒々退治
岩見重太郎という豪傑が諸国を漫遊しながら各地で狒々や大蛇を退治し、父の仇を宮津の天橋立で討ったという伝説は、数十年前までは多くの人々に知られていた。
天橋立には仇討の碑があり、その周辺には岩見重太郎に関連する史跡が残っている。
岩見重太郎は実在の人物だったらしいが、伝説の成立過程において、講釈師らの手により各地に残る豪傑の伝説と結びつけられた。
その結果、岩見重太郎の狒々退治伝説が全国各地に残っているのだが、この話そのものが、時代・登場人物を変えた同じ話の焼き直し作品だと思われる。

●伝説の骨子
狒々(ヒヒ)退治伝説の骨子は、人身御供を要求する悪者の狒々(ヒヒ=古い神)を正義の新しい神が討伐するという話で、この新しい神が
伊勢神道であり、同じ話が各地の神社に伝わっている。
ここで狒々(ヒヒ=古い神)に比定された神が
ダケ(辟)神である。

●秦氏の権力闘争かー。

これらの話の全体の骨子は、新しい政権の京都朝廷で実力を持った秦氏の一派が、
ダケ(辟)神を奉じた旧の秦氏勢力を追って行ったものではないだろうか。
ダケ(辟)神を奉じた旧の秦氏勢力とは、
社を祀った赤穂大避神社秦河勝の子孫ではないかー。


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