道満塚
芦屋道満の墓

所在/兵庫県宍粟市作用町乙大木谷


道摩法師(どうまほうし)は平安時代、一条天皇の頃の大呪術師・非官人の陰陽師。
一般的に、蘆屋(芦屋)道満(あしや どうまん)として知られる。

『播磨鑑』にー、
播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされる。
また、播磨国(現在の兵庫県)の民間陰陽師集団出身ともいわれる。
陰陽道の祖とされる安倍晴明とライバル関係にあった。
晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持つとされ、安倍晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、蘆屋道満は藤原顕光お抱えの陰陽師だった。
道満は藤原道長の政敵である左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされる。
式神対決で晴明に敗れ、播磨へ追放された。

『峰相記(ほうしょうき)』にはー、
藤原顕光に呪詛を依頼された蘆谷道満は安倍晴明にこれを見破られたために播磨に流され、道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだと記されている。

道満の墓がある作用町乙大木谷は棚田の美しい所である。
なお、
甲大木谷には道満のライバルである安倍晴明を祀る社がある。

芦屋道満の伝説
芦屋道満の伝説
・道満がなるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を16個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。
早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が16!」と答えたが、晴明は加持の上冷静に「鼠が16匹」と答えた。
観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆した。しかし、長持を開けてみると、晴明が式神を駆使して鼠に変えてしまっており、中からは鼠が16匹出てきて四方八方に走り回った。この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われているという。

・遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた晴明の留守中に晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術で晴明との命を賭けた対決に勝利して晴明を殺害し、第六感で晴明の死を悟った伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させ道満を斬首、その後に晴明は書を発展させて「ホキ内伝金烏玉兎集」にまとめ上げたといった話が有名である。
この『金烏玉兎集』を盗写したという伝説は、のちに浄瑠璃、歌舞伎に脚色された。

阿倍晴明伝説が全国的に拡散したのと同様、蘆谷道満伝説も、日本各地に「蘆屋塚」・「道満塚」・「道満井」の類が数多く残っている。


晴明塚
安部晴明の墓
所在/兵庫県宍粟市作用町甲大木谷


安倍晴明(あべのせいめい 921〜1005年)

平安時代の最も有名な陰陽師のひとり。
鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。
平安時代では、最先端の学問(呪術・科学)だった「天文道」や占いなどの陰陽道で、卓越した知識を持った陰陽師ともいわれ、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んだ。
蘆屋道満に代表される道摩法師とはライバル関係にあったとされる。
後世に陰陽道の経典となる秘伝書『ホキ内伝』(ほきないでん、別名『金烏玉兎集』)の著者とされている。
墓所は、京都嵯峨、渡月橋の近くにある。
後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したため、日本各地に晴明塚といわれる塚を建立し祀った。


セーマンドーマン

セーマン   ドーマン
セーマンドーマンとは、三重県鳥羽市及び志摩市の海女が身につける魔除けである。
陰陽道と関係するのではないかとも云われ、星形の印は安倍晴明判紋、格子状の印は九字紋と同じ形状である。
このセーマンは安倍晴明、ドーマンは芦屋道満の名に由来するともいわれる。
伊勢志摩の神島地方の海女は、この両方をあわせて『セーメー』と呼称している。
安倍晴明判紋は「晴明桔梗」とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。
九字紋は横5本縦4本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。
ただし、ドーマンの線数は必ずしも九本とは限らない。
広域図
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