謎の姫路地名伝承
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播磨国は、現在の兵庫県南西部を指し、風土記はここに十二の郡を記録している。
大きく分けて四つの流域があるが、本編は風土記の紹介ではなく、古代日本の謎を追っていく事を主題としている。
ここでは、まず、河口の地名伝承のある市川流域からスタートする。
播磨風土記の市川流域には、姫路から北へ六つの里が記録されている。
姫路城のある姫路が瀬戸内海からの入り口だが、この当時から姫路は飾磨郡に含まれていた。

●風土記地名に隠された不思議
市川流域、瀬戸内海の入り口が現在の姫路平野ー。
『播磨国風土記』飾磨郡伊和里の条に、十四の丘の地名伝承がある。
伝承はこうだー。

大汝命(おおなむちのみこと)の子、火明命(ほあかりのみこと)は、強情で行動も激しかった。父神はそれを苦にして子を棄てて逃げようとした。
そこで、船を因達神山(いだてのかみやま)に着けてその子を水汲みにやり、その間に船出してしまった。水汲みから帰ってきた火明命は、船が出て行くのを見て怒り風波を起こし、船を難破させてしまう。
難破した船から、琴や箱・梳匣(くしげ)などの積み荷が落ちた所が、十四の丘になったという説話である。

ここからは様々な謎が浮かんでくる。
その1 姫路地名は道程地名か?
その2 姫路地名にアイヌが関係している?
その3 日本の古代に連番地名が存在した?


●地名伝承の概要
ここでは大汝命と火明命が父子の関係で登場するが、他の文献からはこの二人に父子関係はない。
この伝承自体が政権交代を意味したものなどとも推定されているが、それほど難しく考えることはない。風土記の役割は、当時に伝わっていた伝承や風俗を正確に記録することだった。
播磨風土記も、古来から伝承されてきた地名を紀元八世紀にまとめたと見た方が良い。
ただ、この説話自体は話を分りやすくするために風土記が創作した可能性が高い。
大汝命と火明命は記紀では日本草創期の人物である。
これらの地名が古くから付いていたという作者の意思表示と思われるが、
あるいは、登場人物が時代を示唆している可能性もある。
神前郡に登場する主な人物は、大汝(オオナムチ)命と応神天皇である。
大汝(オオナムチ)命は、記紀年代では紀元前六〇〇年から紀元前七〇〇年ごろの人物であり、応神天皇は、記紀年代で紀元二七〇年ー三〇〇年、推定四世紀後半とされる。
まず、この二つの年代を指針として見て行きたい。

以下、個々の地名を検証していくと、これらの地名が道程地名になっていることが分る。
つまり、姫路平野から東西の市川・夢前川流域への案内地名になっているのだ。
ただし、書き手がそれを意識していたかどうかは分らないー。
さらに、ここに記された地名からはアイヌ民族との係わりも示唆され、現在の日本歴史からは想像できない日本古代の疑問が現われてくるのだ。
まず、伝承の十四の丘を見ていこうー。
●播磨国風土記地名伝承の十四の丘
風土記地名伝承では、船を付けた山がー、
因達神山(いだてのかみやま)・・現在の姫路市辻井の八丈岩山(一七二・九M)である。
そしてー、
波丘・・比定地は、名古山(四十二・三M)大波が起こったところ。
船丘・・比定地は、景福寺山(五十一M)船が沈んだところ。

比定地の山々に現在の標高を記しているのはこれに意味があるからである。
伝承では、山に取り残された大汝命と火明命が出航していく父の船を見て怒り波風を起こす。

・・・火明命、水を汲み還り来て、船の発(い)で去(い)くのを見て、即(すなわ)ち、大きに怒る。依りて、波風を起こして其の船に追い迫まりき。ここに、父の神の船、進み行くこと能わずして、遂に打ち破られき。この所以に其処を船丘と号(なづ)け、波丘と号く。


船が難破したのが波丘で、ここが当時は岩礁地帯だった。
つまり、当時の海水面が波丘の高さ、・・・現在よりも四〇メートルほど高かったと記しているのである。波丘の比定地とされた名古山は、因達神山(八丈岩山)の真正面にあり、比定地として申し分ない。当時の海水面は現在よりも四〇メートルほど高かったのだ。
この海侵四〇メートルの推定は、他のヵ所からも符号してくることになる。

そして、ここで難破した船の積み荷が島々に流れ着いていく。
流れ着いた所がー、

琴神丘(ことかみおか)・・薬師山(四十五M)琴が落ちたところ。
筥丘・箱丘(はこおか)・・男山(五十九M)筥が落ちたところ。
匣丘(くしげおか)・・これが、梳匣(くしげ)が落ちたところだが、この比定地には二説がある。鬢櫛山(びんぐしやま/一八六M)と、下手野の船越山(六十一M)だが、いずれが妥当かは後に推定する。
この他に、
箕形丘(みかたおか)・・新在家の秩父山(二〇M)箕が落ちたところ。
甕丘(みかおか)・・今宿の神子岡山(三十八M)甕(瓶 かめ)が落ちたところ。

稲牟礼丘(いなむれおか)・・青山の稲岡山(六十八・三M)稲が落ちたところ。
冑丘(かぶとおか)・・西延末の冑山(三十六M)冑が落ちたところ。
藤丘・・比定地は今の二階町あたりとされ、綱が落ちたところ。


そして、比定地不詳とされている所が三ヵ所ある。
沈石丘・・(不詳)石が落ちたところ。
鹿丘・・(不詳)鹿が落ちたところ。
犬丘・・(不詳)犬が落ちたところ。

最後に、日女道丘(ひめじおか)・・姫路城のある姫山(四十五M) 蚕子が落ちたところ・・・となる。

これを見て、奇妙なことに気づかれないだろうか。
比定地とされる山に、四〇メートルより低い山がある。赤文字がそれー。
海面下の島に物は流れ着かない。
この矛盾をどうするか・・、
風土記には多くの矛盾があるが、それは項目が異なった場合だ。
この短い文章の中で、作者はこの矛盾に気づかなかったのかどうかー。
作者の時代には比定地は必要でなく、ここに登場する山々は、原文のままの地名で呼ばれていたはずで、作者は目の当たりに見ながら書き記した。
物の書き手はこのような小さなことが気になるものなのだ。原文は間違っていない。
ーとなれば、比定地の方が間違っていることになる。

風土記の記述は紀元七〇〇年代で、それから一三〇〇年を経ている。
この間に、山そのものがすり潰されて無くなっている場合もあり、地域の形状は変化していることも考慮しなければならない。
すべてが当時のままとは云えないが、ここで確定できる男山や薬師山には寺社などが存在し、その他の山にも神社が祀られている。
ここで記された山々が、ひとつには当時の崇拝山だった可能性がある。


そのもっとも顕著な例が船越山である。順にご覧いただこう。

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