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巴利国の謎@ 巴利国の謎A
=神代から七世紀へ=
卑弥呼がつなぐ草創の古代史
倭人伝/巴利国の謎@
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倭人伝に記された播磨
不思議の古代史は、日本のピラミッドをスタート点として、天孫降臨までの神代の歴史を追ったものである。
しかし、そこに表われた神代の歴史と、神武天皇以降の古事記が記す歴史、さらに、現実の歴史がスンナリと結びつかない…、古代史を学んだ者なら誰でもそんなもどかしさがあるのではないかー。
ところが、この神代と有史を結ぶキィワードがあった。
多くの方がご存知の魏志倭人伝ー、この中に女王国へ至る途上で当時の国々が記されていく。さらに、道程途上で通らない国々が「その余の国」として国名のみが記されている。
斯馬(しま)国・己百支(いはき)国……と羅列されるその十八番目に記されたのが
「巴利(はり)国」である。

キィワードはハリ
漢字は、当て字である。この「巴利(はり)国」の「ハリ」…、これこそ、ハリマ(播磨)のハリではないのかー?素朴に浮かんだ疑問こそ、古代史に近づく道しるべだった。倭人伝の中の「巴利(はり)国」の解明は、邪馬台国の解明だった。

古書の邪馬国
中国の古書には、ふたつの邪馬国の存在が記されていた。
邪馬壹國と邪馬臺国…。
二つの邪馬国の追求は更なる日本の古代史へとつながっていく。漠然としていた神代の古代史が、二つの邪馬国へとつながってくるのだ。
邪馬国とは何か?この邪馬の読みにこそ、古代史の全ての謎が含まれていたのである。

島の三国
さらに、邪馬国は日本列島だけでなく朝鮮半島へも波及する。
朝鮮半島には古代史に係わる史書は残存しない。
しかし、日本の古書にも中国の古書にも、朝鮮半島の古代史が記されていたのだ。半島の歴史も又、邪馬国から成立した歴史だったのだ。
これらの全体から表われてくる古代史は、紀元前十二世紀の中東・エジプトの歴史へとさかのぼる。その全容は、古代の中東から竹内文書の古代史、さらに天孫降臨を経て、日本の有史七世紀へとつながってくるのである。
本編は、多くの歴史家たちが解明された魏志倭人伝の追求をベースに、これまでの神代の残像で表われた古代史につなぎ、検証していくものである。

邪馬台国四国説
筆者が八幡山を発見し不思議の古代史をスタートしたころ、邪馬台国四国山上説を唱えた人物があった。
「古代ユダヤと日本建国の秘密」などを著作した大杉博氏である。
九州説や近畿説などが論争されている中、独自の視点での四国説は、邪馬台国ファンには新鮮に受け入れられたらしい。だが、倭人伝は有史の二〜三世紀のことであり、日本のピラミッドは神代の時代、それもずっと古い時代のことと捉えており、倭人伝には取り組んだことはなかった。ところが、ここに来て三世紀の倭人伝を軸に前後へ伸ばしていくことで、神代の古代史と有史の歴史が結ばれていくことになる。
そのキィワードが倭人伝中の「巴利(はり)国」だった。
邪馬台国が四国の山上に存在したのなら、瀬戸内海を隔てた本州に存在したのが播磨…ハリマ、つまりハリの国なのだ。
西播磨の市川には、たしかに、南から来る者への備えがあったことを思い出す。
市川流域、姫路市(旧の神埼郡)香寺町には、市川の河原を横切る一直線の神社配置が存在した。それは、古代の通行路を兼ねた大蛇のような長大な井堰だったらしい。
(参照→B姫の国への道標/第三章・神社一直線)

真説・日本誕生

さらに、多くの邪馬台国説の中、邪馬台移動説の著書がある。
平成七年ごろから発表されている加治木義博氏著作の「真説・日本誕生」と題した一連の著作である。
ここでは、邪馬壹國と邪馬臺国の二つの邪馬国が存在したといい、それが、九州の鹿児島をスタート地点として北へ東へと移動したとする。つまり、九州説も四国説も近畿説も、違うと云えば違うし、合っていると云えば合っているのだ。さらに、この二つの邪馬国は朝鮮半島へも関係していると云う。
加治木義博氏の説は、これまでになかった異説の論だが、古事記や日本書紀、さらに、中国の史書までを忠実に捉えて解明している。
そして、その内容を一つずつ捉えていくと、神代の残像で表われた神代の古代史に結びついていく。そればかりでなく、本編で表われて、解明できなかった謎がここで解けていくことにもなる。

オシホミの名
たとえば、アマテラス伝承のオシホミ尊の長い名前の謎…、
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命ー、これが万葉ガナなら「マカのアショカはヒでシホミ」と読める。
この奇妙な謎は何なのかー?本編・神代の残像で表われた疑問だった。無論、マカやアショカを知らなければこの疑問も湧くはずもないが、古代史家なら知っているはずだ。この疑問も、キィワード=ハリによって見事に解けていくのだ。
(参照→続・神代の残像/第二章その三天日鷲の別名)

ハリマ
播磨風土記に播磨は「針間」とも記される。ハリマの「マ」は=間で、「=国」を意味する。
ハリマ(間)とは、=「ハリ国」という意味になる。
では、ハリとは何だったのかー?
ハリマの語源を探ると、驚くべきことが浮かび上がる。

ハリの語源
ハリとは、バーリー語、または、パーリ語と呼ばれるインド古代語を指す。
それは、紀元前四〜五世紀の釈迦とその弟子たちが使っていた言語のことで、紀元十一世紀ごろまでインドで広く使われたが、のち死語になった。
このパーリ語で記されていたのが、多量の文献を持つ南伝仏教経典
『パーリ語経典』だった。
パーリとは国や地域や民族の名前ではなく、「聖典」という意味だったのだ。
南伝仏教とは、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部(じょうざぶ)仏教のことで、後世に云う「小乗仏教」のことである。
(南伝とは、インドから南へ伝わったという意味)
これに対して、中国やチベットを経て、日本等の地域に伝わった北伝(北へ伝わった)の仏教を大乗仏教といい、六世紀の日本に伝わった仏教は、この大乗仏教である。

小乗と大乗
「乗」とは教えの事で、乗り物にたとえられ、小乗とは小さな乗り物を指す。つまり、当初の釈迦の仏教とは、出家し、厳しい修行を積んだ後に悟りを開き救われる…、したがって、修行をしない一般の人々が救われることはない。
これが釈迦の仏教であり、釈迦没後の長期間、この思想が定着していた。
小乗仏教では、さとりを開いた三十五歳以上の釈迦を崇拝する。釈迦の仏教とは、過酷な修行を積むことによってのみ救われるという厳しいものだったのだ。
しかし、時代が過ぎ、仏教が異民族へ布教されていく過程で変貌していく。教義の解釈変更などが協議され、釈迦はすべての人々を救いたかったはず…、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教である。
大きな乗り物という意味で、すべての人々を救うことを目的とする…、つまり、修行を積んだ僧侶だけでなく、悟りを開いた僧侶によって大衆も救われていくという形に変貌していったのある。

南伝仏教とアショカ王
後世、小乗仏教と呼ばれた南伝の仏教は、上座部(じょうざぶ)仏教と呼ばれた。
紀元前三世紀のインド…、マガダ国マウリア朝のアショカ王(紀元前二六八年頃〜紀元前二三二年頃)は、この上座部仏教に深く帰依し、仏教宣布団を組織し世界への布教を始めた。

アショカ法勅ー磨崖碑文
アショカ王の行跡は、岩壁に彫ったアソカ磨崖法勅
(まがいほうちょく)や国外の要地に建てた石柱の碑文に記録されているといい、加治木氏がそれを解読している。
磨崖法勅には、仏法の教えを広めるための法務大臣など新しい官制を制定し、宣布団を四方へ派遣したとあり、紀元前三〇八年〜二五七年、アショカ王がインド北部から、東西南北に仏教宣教師団を派遣した。その数は、一方向につき護衛の軍隊を含めて一万人にも及び、五年毎に会議を開いて報告させたという。

西方へ向かったグループは、エジプトのアレクサンドリアまでの布教が、エジプト側の記録に残っており、シリア、マケドニア、チレニア、イピルス等の国々でも布教したことが記録されている。

一方、東方に向かった一団の記録は残っていないが、各国に散らばったグループの部族名と行き先の記録があり、たとえば、次のように記されているという。
「アパランタカへ行ったヨナカ」中国の当て字で「阿波蘭多迦」。
「ヤナカ・ロカに行ったマハーラッキタ」ヤナカ→谷中・梁河・柳川?
「タムバ・パンニディーパへ行ったウッチヤ」 タムバ→丹波?ーなどがあった。

ソナカ
その中で注目されたのが、
「スバンナ・ブーミーへ行ったソナカ」だった。
通説、これはミャンマー(=ビルマ)のこととされているが、この「スバンナ」という語は、アショカ王や釈迦が使っていた
パーリ語で「黄金」という意味だった。
後世の十三世紀、マルコポーロは、中国人から聞いた情報として、日本を「黄金の国ジパング」と紹介した。
スバンナ・ブーミーとは、「黄金の国々」という意味で日本列島までを含んでいるという。
この一団を率いた王が、ソナカだった。
ソナカ王は、ビルマからマレー、そして、インドネシアへと足を伸ばして日本までやって来た。
その傍証に、天皇の名前に「ソナカ」が反映されているという。
それが、倭人伝の卑弥呼の反映とされている神宮皇后と、その夫の仲哀天皇の名前である。

足中(ソナカ)と息長(ソナガ)
仲哀天皇の名前は「足中彦」、通説ではこれを「たらしなかつひこ」と読んでいる。
しかし、これを素直に読み直すと、
「あし→そく・なか・ひこ」
后の神宮皇后の名前では、古事記で記された「息長帯比売命(おきながたらしひめ)」…、
これを読み直すとー、「息(いき→そく)長(なが)帯(たらし)比売(ひめ)」で、
「そく・なが・ひめ」
つまり、「足中彦(そくなかひこ)」と「息長比売(そくながひめ)」ー。
これを万葉ガナとして読み下すと「ソナカ彦」と「ソナカ姫」…。
たしかに、南伝仏教宣布団のソナカ王の名が、天皇・皇后の名前に反映されているのではないかー。

巴利は播磨へ
有史の古代日本に、南伝の上座部(じょうざぶ)仏教が渡来していた。その伝播地が倭人伝の中の巴利(はり)国であり、インドシナ半島からフィリピン、台湾、沖縄を経由して南からやって来た。九州南部から上陸した巴利(はり)国は北へ移動し、後世、播磨と呼ばれた兵庫県南部の地域に落ち着いていた。
(参照→加治木義博「新説日本誕生・卑弥呼など」)

古代播磨とは、南伝仏教の『パーリ語経典』を持った国として重要視された国だったことになる。

西播磨神殿
神代の残像の全編からは、神代の西播磨には山を組み合わせた巨大神殿が浮かび上がっている。
播磨の地には、想像を絶する西播磨一円を領域とした巨大神殿が存在した。
(参照→神代の残像F総伝)

ピラミッドラインからすれば、播磨の地は、ハリの名がつく以前から神を祀った土地だったのだ。仏教経典の巴利(はり)国が、播磨の地に落ち着いたのは、偶然ではなく、必然だったかもしれないのだ。

出雲族

だが、ちょっと待て…である。
アショカ王宣布団の時代は紀元前三世紀のことで、仲哀天皇・神宮皇后は紀元後二〜三世紀のこととされ、時代が合わない。
加治木説では、この仏教宣布団=ソナカ王家とは、仲哀神宮ではなく、紀元前に渡来した出雲族ではないかという。
出雲族の系譜は、スサノオ系譜であり、この系譜の中にオオナムチがいる。
播磨風土記には、オオナムチとスクナヒコナの国造りが記されている。この説に従がえば、彼らが持ってきたのはアショカ仏教だったことになるのだが…。

スサノオ系譜の斉(せい)
スサノオ系譜をもつ可能性のある氏族は、紀元前四〜三世紀ごろの中国大陸にもいる。
春秋戦国時代の斉(せい)でー、それも、紀元前四〇〇年代の田斉(でんせい)である。
探検協会の高橋良典氏は、この田斉の系譜がスサノオから始まり、大国主の国譲りで終わるスサノオ系譜だと読み解いている。
(詳細→続・神代の残像第四章その四鏡合わせの越中と謎の出雲)

出雲は「いん」か?
出雲の読みが「い・ぅん=いん(殷)」と読めることからしても、島根県出雲地方は中国大陸との関連氏族だった可能性の方が高い。
竹内文献には、出雲別国と記され、これを出雲(いずも)別国と読んでもその意味は分からないが、出雲(いん)別国と読めば、「中国大陸=殷王朝の国の別国」と意味が通じる。
田斉(でんせい)は始皇帝に国を譲って滅亡しているが、これが紀元前二二一年のことである。出雲一族は、中国大陸からやって来たスサノオの系譜を持った氏族の可能性もあり、単純にアショカ仏教の伝承者とは云えない。

シバ神とヒンドゥーの三神
インド宗教のヒンドゥー教の教義の基本に三神がある。
ブラフマー神(宇宙の創造を司る神)、ヴィシュヌ神(宇宙の維持を司る神)、シヴァ神(世界の破壊を司る神)の三神で、この三神は一体とされている。三神一体の形は、その侭、日本の造化三神に似ている。
日本の神道は、このヒンドゥー教とその元を同じにしているらしい。それは、ヒンドゥーの語源にあるらしいのだ。

ヒンドゥー
ヒンドゥーの語源は、サンスクリットでインダス川を意味する
「sindhu」が、古代のペルシアで転訛したものという。
「sindhu」はカナ書きすれば、「スィンドウ」、または、「シンドウ」となる。
つまり、
インダス川=「sindhu」に「神道」を充てた。これが、日本の神道らしい。
すなわち、ヒンドゥー教とは、元名が、シンドー教だったのだ。

ヒンドゥー教
紀元前二〇〇〇年ごろ、イランからインド北西部に侵入したアーリア人は、前一五〇〇年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。だが、前五世紀ごろに政治的変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた結果、民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化していく。

祭神シヴァ=邪馬
ヒンドゥー教には三神があるものの、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称されて、多くの信者がいるという。ヴィシュヌ神を信仰する派をヴィシュヌ教、また、シヴァ神を信仰する派をシヴァ教と呼ぶ。つまり、日本に存在した邪馬国とは、このシヴァ=邪馬神を信仰したシヴァ教の国だったらしい。
邪馬の読みは「シャバ」であり、シヴァ神への当て字だ。
邪馬国と記された紀元三世紀の日本に存在したのは、ヒンドゥー教のシヴァ神であり、同時に、巴利(はり)国の南伝上座部(じょうざぶ)仏教=小乗仏教だったらしい。

ヴィシュヌ神=御中主
さらに、古代日本には、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神も伝わっていたらしい。
ヴィシュヌ神を当て字で書き直してみるとー、美(ビ)中(ジュウ)主(ヌシ)神(シン)で、「美はミ→御」と変化すると、ヴィシュヌ神とは、=御中主神となる?のではないかー。
一般に、インド仏教は、ヒンドゥー教であり、その前身はバラモン教と大別されている。しかし、ヒンドゥー教・バラモン教の名称は、後世の歴史家が区別のために作った名称である。
ヒンドゥーの語源は、サンスクリットの「sindhu」であり、意味はインダス川のことである。つまり、この宗教に名前はなく、当時は単に、インダス川の所の宗教と呼ばれていたのだ。
そして、「sindhu」は「シンドゥー」であり、これが日本の「神道」になった。ヒンドゥー教は紀元前五世紀ごろからの始まりとされるが、単に「インダス川の宗教」という意味で、シンドゥー教と呼ばれていたのではないかー。

シンドゥー教
播磨風土記には、古代の播磨にやって来たオオナムチとスクナヒコの二人による国造りが記されているが、この最初にやって来たオオナムチとスクナヒコが、ヴィシュヌ神を信仰するシンドゥー教だったのではないか。
その後へ、南伝のソナカ王の上座部仏教がやって来た…、これが、倭国大乱を引き起こしたのではないか?
倭人伝に記された倭国の擾乱とは、宗教戦争だったのではないかと、加治木氏は指摘する。

ソナカの日本渡来?
ソナカの仏教宣布団は、いつ頃に日本にやって来たのか。
彼らのインド出発は、紀元前三世紀半ば頃ー、この時代に日本にやって来たとして、神宮皇后の名にソナカが反映されるのが、紀元後の二〜三世紀というのは、ちょっと、長すぎるのではないか。ソナカを名乗るなら、渡来の最初から名乗る方が効果的ではないだろうか?
この間、四〜五百年が経ち、ソナカの故国アショカ王のマカダ国は、すでに滅亡している。帰るべき故国をなくした宣布団は、布教地から布教地へと移動しながら仏教を定着させていった可能性もある。日本到着が、インドを出発したソナカ王から数世代を経た後のことだった可能性もある。
このソナカ宣布団の渡来が、倭国大乱の遠因となったのではないか。
ーとすれば、渡来から四〜五百年のちと云うのは、ちょっと、長過ぎるのだ。
参考⇒古代史BOOK神代の残像
巴利国の謎@ 巴利国の謎A

つづく
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